汝を汝たらしめるは怒りなりや?
どうも怒りを抑える方法を模索する哲学青年です。
若い頃は苛烈であるというのは正しいと現在感じている所でございます。
最近はパソコンに怒りを感じ、今までに二度、殴りたくなりました。
いつもキレているバイトの方はと言いますと、使えないながらも努力の見える少女が入ったので精神安定期に入っております。
結局思うのですが、自分の思うようにならないもの全般に、人は怒りを感じるのではないでしょうか?
え?
お前だけ?
うるせー!ぶん殴るぞ!
パーリーピーポー
死すべし慈悲はない。
何故に大学という場所はあんなにもゴミゴミしているのか。私の通う田舎の山奥のプレハブのほうが上等に見えるオンボロな大学でさえゴタゴタとして、化粧臭く、そして汗臭い。そしてそこの喧騒の中心にいる人は総じて皆パーリーピーポーだ。
これはそのパーリーピーポーの会話である。
女.「ねぇねぇ、あんさぁ?うちきょうひまなんだけどぉ?パリらない?」
男1.「えぇ?そなのぉ?でもさ〜あ?先週スキーパしたばっかじゃなかった?」
男2.「でも、言ってないやついっぱいおったやん。そいつら誘ってったらええやん。」
女.「それな。」
男1.「それな。」
男2.「今回はタコパで。」
女.「材料よろ。」
男1.「りょりょりょ」
関西弁が出てきているがここは関東の片田舎である。勿論そいつは偽物である。
スキーパとは何なのか。友達に聞いたところ、歯の隙間が空いていることだと言われたが、絶対にそれじゃない。
まぁ、すき焼きパーティくらいのことだろう。
それにしてもパーティーが多すぎる。
カシパ、ナベパ、アイパ、パジャパ、タコパ、ランパ、イッキパ…
彼らはいつもパーティーを行い、愚かな行動を行う。いずれそれを後悔するとも知らずに。
それでも私は彼らに一種の憧憬の念を持ってしまったりもする。それはだいたい疲れてるときだが。
そして私は、一通りの文句を心で反芻し、また、一人カラオケに行くのだった。
愛について本気だして考えてみた…
弁証法で。哲学青年です。
弁証法とは…。簡単に言うと、
「モノゴトは目標のためにいつも進化している。」
ということ。
例えるならば、
一つの計画に「A案」と「B案」があったが甲乙付けがたい。だから、いいとこだけ取った「C案」を作り出した。
と言うかたちになるだろうか。
今回はこれで「愛」について考えてみた…
のだが、
自称フェミニストや
現実を見ることができない頭がお花畑のメルヘン少女、
田嶋陽子、
またはそれに迎合する女性崇拝者並びに男性廃絶論者
の方々には刺激が強いので見ないでください。
そしてこれは一個人の見解である。それでもよければ読んでくだちい。
まず第一に、弁証法で考えると愛の行く先はsexである。最終的な目的はそこにある。しかし、人は常に動いてなければ死ぬのである。
一回やったら終わりではなく、もう一回それに向けて動き出し始める。そう、日頃の何気ないラインも、デートも、プレゼントも、覚えていられるわけもないし、覚えていたくもない記念日を祝うのもすべてsexのためである。
しかし、そのうち、
女には「結婚」をゴールとする意識が、
男には「次の女との行為」をゴールとする意識が生まれる。
ここでお互いの意志がぶつかる。
ぶつかった結果どちらかが折れる(大体は男性が)。
ここからは、お互いにどうすれば幸せなのか、何が愛なのかをお互いに探しあっていく。
そして、なんやかんやして(実際筆者はここらで飽きてる)、老夫婦の、性的交渉を持たない愛へと昇華する。
愛は[カップル]から[家族]になる過程で全く別のものに変わっていることに気づく読者諸兄もいるだろう。
カップルは性行為が行き着く先だが、夫婦になるとそこではなく、愛と言う名前をつけるべき感情でも、それの行き着く先は[お互いの無垢なる幸せ]なのかもしれない。
「あのビデオではただのペニスとワギナの関係よ。獣の繁殖行動と変わらないわ。私が求めてるものとは違うのよ。」〜児童文学題名不詳より〜
誰のために手にした武器だ?
口論と議論においてあまり負けたことがない自称ソフィストの哲学者です。
僕は昔から「女の子みたい」と言われてきました。それは顔とかではなく、立ち居振る舞いや好むもの色々なことが要因となってですが。そんな私ですから親戚や同級生の父兄からわが母が受けたそしりは多大なものだったと思います。
そんな母が武器を取ったのは私が小学三年生の時。
二人でスーパーに買い物にいったとき、近所のオバサンに
「哲学者くんはいくつになっても女の子みたいだねぇ。お外でもあんまり遊んでないしねぇ(嘲笑)。」
と嫌味っぽく言われたんですね。
そしたら母が
「この子は男の子ですけど?外に出たら男の子、家にいたら女の子ですか?」と一喝してくれたんですよね。
彼女は愛する家族のためにその「言葉」と呼ばれる武器を取りました。
一方守られた私は?
自分を守る為に、自分のチッポケなプライドの為に、あるいは、誰かを傷つけるために………。
そんなくだらない理由で「言葉」と言う武器を取りそして使い続けました。しかも使えば使うほど切れ味は増し、犠牲者は増えるばかり。
学校では[無口だけど、口を開くと説教か毒が出る気難しい人]と呼ばれ(知り合い談)、バイト先では[夜の部の番人]、[派遣辞めさせ屋]、[社員より怖いバイト](社員談)などと呼ばれる始末。
それでも大学生(成人)だから、多少は鎮めています。しかし、ふとした拍子に出てしまうことはあります。
どうせ同じように「武器」を取るならば、誰かの為に、必要に駆られて取ってやりたいものです。
胡蝶の夢
昼寝の時間が日に日に伸び続けてしまって最近では4時間くらい寝てしまっている哲学者です。
最近思うのですが、私達が生きている事の証ってなんでしょうか?
一般的に見れば
[死んでないから生きてる]
わけですが、哲学者チックな言い回しになると、
[俺以外のすべては嘘かもしれないから信じられないし、俺自身が触っているものも嘘っぱちかもしれない。でも、俺がそう思っているこの時俺は生きている。]
とか、
[俺っち人間じゃなくて蝶として生きてるのかもしれん]
なんて形になるんですよね。
あまり関係ありませんが、僕の好きな漫画のなかにこんなセリフがあるんですよね。
「 私は人間だ。人間が人間たらしめている物はただ一つ、己の意志だ。
~~~~~~~~中略~~~~~~~~
私は私の意志がある限り、たとえガラス瓶の培養液の中に浮かぶ脳髄が私の全てだとしても、きっと巨大な電算機の記憶回路が私の全てだったとしても、私は人間だ。人間は魂の 心の 意志の生き物だ。」
悪役の割に行ってることまともでワロタ。
幻聴
最近外に出るのが、恐ろしく感じます。
勿論私の精神は完璧に幸福ですから、異常などきたしているはずはありません。
しかし、最近他人の作り笑顔を見ると、背筋が寒くなります。それは例えるならば、ゴキブリと対面したような気持ちでしょうか?
そして決まってそんなときに、「死ね」とどこからか聞こえてくるのです。