ゆとり世代哲学者の憂鬱

ゆとり世代に生まれた苦悩を哲学者の力を借りて解決していく。

不定期掲載「旅する哲学者」

よく晴れた春の午後。彼はウキウキとした足取りで歩いていた。

彼の名は

「ジャン=ジャック・ルソー」。

社会契約論や「エーミール」で知られた哲学者である。

彼はあることの下見の為に、この公園へと来ていた。そのあることは主に朝、行われるのだが、彼はそれが大好きだった。

懸命な読者諸兄ならば、ルソーと来たらこれと言うものが浮かんでいることだろう。

そうそれだ。「露出」だ。

彼は転生した今でも、その悪癖が直せなかった。

 前日、前々日の露出を思い出しながら彼はニタニタと笑って新たな露出ポイントを見つけようとしていた。

しかし、彼は突然足を止め、カバンから何かを取り出した。そしてその取り出したアルミ箔で覆われている帽子様の物体を頭にかぶったのだ。

そして、

「毒電波だなぁ。やめろぉ。俺についてくるなぁ。集団でストーカーする気だなぁ。やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ…」

と言いながらしゃがみこんでしまったのだ。

どうやら、こちらの妄想癖の方も治らなかったようだ。

 

 

このあと彼は、精神科病棟のスタッフによって山間の施設へと連れ戻されたという。

その後の彼を知るものはいない…。

いろいろな死に方を考える

<十人のインディアンのリズムで>

 

世の中色々死にかたあるよ

首吊り、割腹、飛び降り、焼身

どれが一番良い死にかたか

一つずつ見ていこう

 

首吊りこいつは結構キツイ

首折れるまでは地獄の苦しみ

死んだあとも迷惑かける

絶対やめましょう

 

割腹こいつは死に様汚い

介錯人も必要になる

臓物出して死にたくなけりゃ

絶対やめましょう

 

飛び降りこいつは周りを巻き込む

お前の死体がトラウマになる

地面のシミはマジでやばい

絶対やめとけよ

 

焼身こいつは一番苦しい

下手すりゃ火事を招いてしまう

死ぬなら迷惑周りにかけるな

絶対やめとけよ

 

いろんな死にかたいろんな迷惑

<アーアー>(コーラス)

総じて自殺は絶対迷惑

<アーアー>

あなたの一瞬誰かの一生

<アーアー>

絶対死ぬんじゃなーい!

<絶対死ぬんじゃなーい!>

 

 

 

道徳的に許されない

だからどうした。

突然ですが、道徳って誰が決めたんでしょうか?

と言うか、道徳を守る理由ってなんでしょうか?

まぁ、大体の方は、いけないことだからやらない、世間体的な問題もあるみたいな理由でやらないんでしょう。

でも、なぜいけないのかについては答えられる人は少ないように思います。

しかし…かのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは乱暴なりにも答えを出しました。

 

「道徳に反することがいけない理由?そんなものは簡単だ!正しいと信じていれば自分が気持ちいいからだ。」※意訳です

 

我々はほんとに正しい事をしていますか?

大衆の、多数派の意見に流されて、黒を白にしてませんか?

自慰行為のために道徳的な正論を言ってませんか?

貴方の言葉は本当に正しさを説いた言葉ですか?

 

勿論、私自身の言葉も正しい事などありません。ですが、私の前に立ち、大衆のカサを着て論戦を挑むものの言葉もまた正しい事などないのです。

なぜならば、道徳は人それぞれだから。

興奮するものが違うように

異性のタイプが違うように

好きな趣味が違うように

好むものが違うように、気持ちよくなれるものも違うんですね。

 

 

たとえ私の道徳観に賛成するものがいなくとも、正しいと信じたものを大事にしたいものですね。

 

ニーチェ大松「一般的な道徳に当てはまらなかったら往々にして犯罪者だぞ」

 

ファッキューマッツ。

 

 

汝を汝たらしめるは怒りなりや?

どうも怒りを抑える方法を模索する哲学青年です。

若い頃は苛烈であるというのは正しいと現在感じている所でございます。

最近はパソコンに怒りを感じ、今までに二度、殴りたくなりました。

いつもキレているバイトの方はと言いますと、使えないながらも努力の見える少女が入ったので精神安定期に入っております。

結局思うのですが、自分の思うようにならないもの全般に、人は怒りを感じるのではないでしょうか?

え?

お前だけ?

うるせー!ぶん殴るぞ!

パーリーピーポー

死すべし慈悲はない。

何故に大学という場所はあんなにもゴミゴミしているのか。私の通う田舎の山奥のプレハブのほうが上等に見えるオンボロな大学でさえゴタゴタとして、化粧臭く、そして汗臭い。そしてそこの喧騒の中心にいる人は総じて皆パーリーピーポーだ。

これはそのパーリーピーポーの会話である。

女.「ねぇねぇ、あんさぁ?うちきょうひまなんだけどぉ?パリらない?」

男1.「えぇ?そなのぉ?でもさ〜あ?先週スキーパしたばっかじゃなかった?」

男2.「でも、言ってないやついっぱいおったやん。そいつら誘ってったらええやん。」 

女.「それな。」

男1.「それな。」

男2.「今回はタコパで。」

女.「材料よろ。」

男1.「りょりょりょ」

 

関西弁が出てきているがここは関東の片田舎である。勿論そいつは偽物である。

スキーパとは何なのか。友達に聞いたところ、歯の隙間が空いていることだと言われたが、絶対にそれじゃない。

まぁ、すき焼きパーティくらいのことだろう。

それにしてもパーティーが多すぎる。

カシパ、ナベパ、アイパ、パジャパ、タコパ、ランパ、イッキパ…

彼らはいつもパーティーを行い、愚かな行動を行う。いずれそれを後悔するとも知らずに。

それでも私は彼らに一種の憧憬の念を持ってしまったりもする。それはだいたい疲れてるときだが。

そして私は、一通りの文句を心で反芻し、また、一人カラオケに行くのだった。

 

愛について本気だして考えてみた…

弁証法で。哲学青年です。

弁証法とは…。簡単に言うと、

「モノゴトは目標のためにいつも進化している。」

ということ。

例えるならば、

一つの計画に「A案」と「B案」があったが甲乙付けがたい。だから、いいとこだけ取った「C案」を作り出した。

と言うかたちになるだろうか。

今回はこれで「愛」について考えてみた…

のだが、

自称フェミニスト

現実を見ることができない頭がお花畑のメルヘン少女、

田嶋陽子

またはそれに迎合する女性崇拝者並びに男性廃絶論者

の方々には刺激が強いので見ないでください。

そしてこれは一個人の見解である。それでもよければ読んでくだちい。

 

まず第一に、弁証法で考えると愛の行く先はsexである。最終的な目的はそこにある。しかし、人は常に動いてなければ死ぬのである。

一回やったら終わりではなく、もう一回それに向けて動き出し始める。そう、日頃の何気ないラインも、デートも、プレゼントも、覚えていられるわけもないし、覚えていたくもない記念日を祝うのもすべてsexのためである。

しかし、そのうち、

女には「結婚」をゴールとする意識が、

男には「次の女との行為」をゴールとする意識が生まれる。

ここでお互いの意志がぶつかる。

ぶつかった結果どちらかが折れる(大体は男性が)。

ここからは、お互いにどうすれば幸せなのか、何が愛なのかをお互いに探しあっていく。

そして、なんやかんやして(実際筆者はここらで飽きてる)、老夫婦の、性的交渉を持たない愛へと昇華する。

愛は[カップル]から[家族]になる過程で全く別のものに変わっていることに気づく読者諸兄もいるだろう。

カップルは性行為が行き着く先だが、夫婦になるとそこではなく、愛と言う名前をつけるべき感情でも、それの行き着く先は[お互いの無垢なる幸せ]なのかもしれない。

 

「あのビデオではただのペニスとワギナの関係よ。獣の繁殖行動と変わらないわ。私が求めてるものとは違うのよ。」〜児童文学題名不詳より〜